概念とか倫理とか正義っていうのは何で相対的なんだろうな。
たったひとつの答えが定められていて唯一無二の絶対真理の元に世の中が構成されてればどんなにラクか。
その指針となるものが法律なんだろうけど、万人が納得できるものではないし、その法律故に泣きを見る犠牲者もいるわけでしょ。
精神論では同情できても法律上救うことは出来ない、みたいな。
概念が相対的なのは人の数だけ考え方がある為だろうけど、
仮に世界中の人たちが全く同じ思考回路で同じ答えを導き出したら世の中はどうなるんだろう。
と、風邪で朦朧とする意識の中考えてみた。
まあ、成り立たないだろうな、世の中が。
「勝利の為の犠牲」とか「犠牲はつきもの」、
「光があれば影もできる」「誰かが幸せになればその為に不幸になる人が必ずいる」
なんて陳腐なフレーズは聞くけど
それが実行できる冷徹さが結局は発展につながるのは認めざるを得ないのかもしれない。
全ての人を救うことは出来ないんだろうな。
法律は国民を守る為に作られたけど個人を守るためではないんだろう。
その対象となるのは国民というレベルの集団であって
ひいては国を守るために存在するんだろう。
そしてそんな厳しい条件の中、
色んな考え方があって模索していくから人は正しい方向に向かい続けるんだろう。
ひとつの絶対的正義、そんなものがあったら人は返って発展できないのかもしれない。
きっと絶対的に正しい形ってのは存在しないから到達することは永久にないんだろうけど、
その方向へは向かい続けてる。
状況を変えようと試みるそれ自体が、人類が進化していく為に必要なのかもしれないな。
とても悲しいけど。
ただ、その為に犠牲者はでなくちゃいけないものなのかね。


概念が相対的なのは人の数だけ考え方がある為だろうけど、
仮に世界中の人たちが全く同じ思考回路で同じ答えを導き出したら世の中はどうなるんだろう。
と、風邪で朦朧とする意識の中考えてみた。
まあ、成り立たないだろうな、世の中が。
「勝利の為の犠牲」とか「犠牲はつきもの」、
「光があれば影もできる」「誰かが幸せになればその為に不幸になる人が必ずいる」
なんて陳腐なフレーズは聞くけど
それが実行できる冷徹さが結局は発展につながるのは認めざるを得ないのかもしれない。
全ての人を救うことは出来ないんだろうな。
法律は国民を守る為に作られたけど個人を守るためではないんだろう。
その対象となるのは国民というレベルの集団であって
ひいては国を守るために存在するんだろう。
そしてそんな厳しい条件の中、
色んな考え方があって模索していくから人は正しい方向に向かい続けるんだろう。
ひとつの絶対的正義、そんなものがあったら人は返って発展できないのかもしれない。
きっと絶対的に正しい形ってのは存在しないから到達することは永久にないんだろうけど、
その方向へは向かい続けてる。
状況を変えようと試みるそれ自体が、人類が進化していく為に必要なのかもしれないな。
とても悲しいけど。
ただ、その為に犠牲者はでなくちゃいけないものなのかね。

